日本においては、近代的な結婚規範はどのように成立したのだろうか。結婚規範については、 日本社会では「家」制度(家族制度)の存在は大きい。川島武宜によると、近代化をめざす明治政府が、人口の比率としては数%しかない旧武士層の貴族・官僚に維持されていた男尊女卑を是とする家族秩序を理想的家族の姿として社会に定着させたものが「家」制度である(川島1957)。1871年に戸籍法が制定され、1898年制定の明治民法で、女性が結婚すると夫の姓の戸籍に入り夫の姓を名乗ることが法制化された。結婚の届出を義務づける法律婚制度も明治民法で定められた。明治民法の施行後には、それまで先祖代々の家産がなく「家」になじみのなかった一般国民までが結婚を家と家との結びつきと考えるようになったのである。
結婚と恋愛を結びつける恋愛規範の成立は、恋愛の概念が明治に輸入されたのが契機となる。柳父章は、恋愛は舶来の観念であるとし、「私たちはかつて、一世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。」と述べている(柳父1982)。恋愛が輸入された頃は、結婚と恋愛は結びついていなかった。
湯沢雄彦によると、明治期に大半の男女は都市部でも農村でも親や周囲が進める縁談で結婚しており、結婚相手の選択は恋愛ではなく、相手との釣り合いや働きぶりなどが基準であった(湯沢2005)。しかし、1899(明治32)年に高等女学校令が出されて女学生が社会に登場したことをきっかけに、男子学生にとって、輸入語で理念上の概念にすぎなかった恋愛が現実的なものとなる。女学生を恋愛対象とし、やはり新たな概念である「マイホーム」と結びつけて、恋愛相手と結婚する考え方が学生を中心に定着していく。
女性と男性の役割は異なるという性別役割規範も女学校の設立とともに形成された。女学校は、次世代の優秀な労働力の再生産を目的に、西欧の進歩的な考え方であった良妻賢母教育を実施する学校であった。女性のあるべき姿は、良き妻、賢い母であり、そこに到達するためにまずは結婚しなければならない。恋愛規範の普及ともに、女性にとって結婚は恋愛の帰結であり、私的領域で家事労働に従事することが結婚のあり方となった。
一方、前川直哉によると、1906年頃から男子学生向き雑誌の内容は恋愛が少なくなり「男性は『家庭の外』、すなわち公的領域をされる場を中心に生きるべきだとする価値観が、雑誌などのジャーナリズムを通じて広く普及」していくようになった(前川2011)。とはいえ、明治末期で子どもを中学校以上に進学させることができる層は中間階級に限られ、恋愛規範も性別役割規範も国民全体への一般化は、高度経済成長期を待つことになる。
民法改正がもたらしたもの
第2次世界大戦後、日本では新しく日本国憲法が作られた。憲法第24条では、婚姻は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚するとされ、同時に民法も改正された。女性が婚姻によって夫の姓の戸籍に入る法は廃止されたが、「家」意識や家父長意識を温存する規定が「戸籍制度」をはじめとして法律の中に残された。その結果、憲法第24条にもかかわらず、家意識や家父長意識は戦後も法律や慣習に残存し続けることになった。
戸籍制度に残る「家」意識を民法学者の二宮周平は以下の通り整理している。「氏」が戸籍編成の基準で、戸籍には筆頭者1名を定め、夫婦同氏・親子同氏が原則とされた。住民登録法にも「家」意識が残存し、住民登録は個人単位でなく世帯単位で世帯主を定め、世帯員は世帯主との続柄の記載が義務づけられた。明治民法の戸主にならい、新民法の筆頭者および世帯主は男性とし、結果として夫を据えることが慣行となった。夫が筆頭者であるため、妻は離婚したら戸籍から外され、子は婚姻すれば戸籍から外れる。その結果、戸籍は「家」に見立てられ、女性の結婚は入籍と捉えられ、夫の家の嫁として扱われる。また、夫が住民票の世帯主であることを根拠に、多くの企業では夫である男性従業員が扶養手当の受給者になることを規定している。「こうして夫婦と子という近代的小家族に、夫を主人とみる家父長意識が重ねられていった」のである(二宮2004)。
企業社会が結婚に与えた影響
戦後も家父長制家族規範が維持された背景には、企業を中心とする社会の発展に伴い、「夫はサラリーマン、妻は専業主婦」という標準家族を前提とした、夫を主軸とする世帯単位の生活保障制度が構築されたことに依拠する。企業を中心とする社会は、明治期に日本の近代化とともにすでに構築されはじめていた。桜井陽子・桜井厚は家父長的家族規範に基づいた戦前の大企業と従業員とその家族との関係を次のように説明している。企業は従業員には主人(おおやけ)であり、企業は従業員に恩(生活保障する賃金)を与え、従業員は恩に報いるため私(わたくし)を捧げて公に尽くす。従業員は家族には主人(おおやけ)であり、家族に恩を与え、家族は私(わたくし)を捧げて公に尽くす。企業の原理と家庭の原理とは相互に補完しあっていた(桜井・桜井1987)。
戦後は、企業別組合の成立により労働者と企業との利害は結びつくことになった。組合は家族を抱えた男性労働者の生活の安泰を要求し、経済の発展とともに要求は満たされた。その結果、家庭生活を保障する年功序列賃金体系、男性の雇用を安定させる終身雇用制など、 いわゆる日本的経営雇用慣行が成立し、家族は企業組織に組み込まれていったのである。従業員の福祉を企業が担うシステムが大企業を中心に構築されるとともに、企業への貢献が家庭の幸福につながるという社会意識が形成されていった。
このように企業が従業員の家族までの生活保障を担う家族主義的な経営イデオロギーは戦前と戦後で連続しており、間宏は戦前を経営家族主義、戦後を経営福祉主義と名付けた(間1963)。
一方、憲法第24条では婚姻における当人同士の意思が保障されたため、恋愛と結婚を結びつける恋愛規範は定着し、 第3章でみたように恋愛結婚は増加した。高度経済成長期には、男性1人の賃金で家族を養える経済状況の中で性別役割規範が一般化し、結婚は、男性にとっては妻のために企業に貢献する役割を引き受けること、女性にとっては夫が英気を養う心地よい私的空間を用意する役割を引き受けること、 と男女で異なる意味をもつようになった。結果、夫と妻が相補う役割を果たすことが愛の表現と考えられるに至った。
1975年以降、高度経済成長期の終焉に伴い、既婚女性の就労率は高まり結婚の実態が変化していく一方で、性別役割規範や恋愛規範は残存し続け、実態との間に齟齬を生み出すこととなった。
